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一時期、下流社会という本がベストセラーになっていました。
今も、格差社会という言葉が流行っていて、今度の参議院選挙でもこれがひとつの争点になっているものと思います。
究極の格差社会になった場合、つまり、ごく一握りの者が富を独占し、多数が貧困にあえぎ、生き地獄のような毎日を送るようになった時、どういうことがおこるでしょうか?
赤貧の人達は、どうせ生きていても地獄のような日々が待っているだけですから、生きるも死ぬも一緒、ならば、死を決して立ち上がるということで、共産主義革命等の革命を決起するに決まっています。
こうなると、富を独占していたお金持ちの人達も血祭りに上げられ、いずれにしても、動乱の世の中になることでしょう。
原始資本主義の基本原理は、自由放任主義(レッセフェール)でした。
つまり、国家は社会政策、経済政策なんてしなくていい、赤貧の連中が増えたって、一時的なもので、ほっときゃあそのうち、よくなる(神の見えざる手:Invisible hand of God)って、
経済学者(但し、アダムスミスを祖とする初期古典派経済学者)もいってるんだから、
泥棒やよその国が自国のブルジョワジー(有産階級・ようするにお金持ち)の大事な大事な財産を収奪しないように、
治安維持と国防だけやっときゃあいい(こういう国家像を「夜警国家」という)という感じの考え方が自由放任主義です・・。
封建社会を打破し、市民革命を得て、資本主義体制を作っていった人達は基本的にはブルジョワジー達ですから、まあこういう発想になってもいたしかたない部分はあります。
が、ほんとに自由放任のほったらかし夜警国家でやってみたら、予測が外れて古典派経済学者の言うとおりにならず、
あちらこちらに失業者が溢れ出して、
(昔は失業保険なんてものもないし、もちろん生活保護制度もありませんから、
今の失業者とは違って初期資本主義段階における失業者はまさに生きるか死ぬか状態まで追い込まれ、
そりゃあ、悲惨なものでした・・。)
ロシア等では冒頭に書いたような共産主義革命が本当に起きちゃって、
このままでは、共産主義の風が全世界に吹き荒れるという段階になってブルジョワジー達もはじめて気付いたわけですね。
「赤貧の連中をほったらかしにしていると、革命が起きて赤貧連中に財産を取り上げられ、それどころか我輩達ブルジョワジーの首がギロチンにかけられる・・。」
ということで、もうそこまで共産主義革命の波がやってきていた、第一次世界大戦後のドイツにおいて、ワイマール憲法という憲法が制定され、ここで初めて社会権が規定されるということになったわけです。
ちなみに、ワイマール憲法上で社会権的規定を行なっている条文は151条1項ですが、その内容は以下のようなものです。
(以下、http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/kinndaiknnpoiseiritu.htm より引用)
「経済生活の秩序は、すべての者に人間たるに値する生活を保障する目的をもつ正義の原則に適合しなければならない。この限界内で、個人の経済的自由は、確保されなければならない。」
(引用終わり)
試験委員の石川教授(だと推測)は、ワイマール憲法条文に関する比較法学的問題を出したという前科があるので、この条文も確認しておいた方がいいかもしれません・・。
社会権は、第二次世界大戦後、世界的に容認されるに至り、日本国憲法もその影響を受けて、25条以下に規定されることとなりました。
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日本国憲法25条を確認してみましょう。
「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」
問題は、このように規定される生存権が、どのような法的正確を持つのかということです。
生存権は社会権であると通常考えられているのですが、自由権的側面もあり、「文化的な最低限度の生活を営めないほどの重税を課すな!」という性格もあるということをまず確認しておきましょう。
次に生存権の社会権的な側面ですが、こちらについては、その法的性格について以下のような考え方にわかれます。
1.プログラム規定説
この説はなんと、「生存権」なんて権利でも人権でもなんでもない!と言い切ってしまう、とてもファンキーな説です。
25条1項には、「権利を有する」とわざわざ書いてあるのに、そんなこと一切無視して「権利でも人権でもない!」とやってしまうわけですから、カッコいいですね。
この説では、25条は、単なる政治的スローガンみたいなもので、なるべくそういう社会になればいいね、それが理想だね!
でも、理想であって人権じゃあないんだよ、だから生存権の保障なんてしなくていいんだよ。
だから君たちはがんばらなくてもいいんだよ、できることだけやればいいんだ、みたいな、なんか夜回り先生のようなことをいうわけです・・。
(この場合の君たちは、青春に悩む少年少女ではなくて国家ですが・・。)
その理由として、「日本は資本主義国家なんだから、生活に困っても自分でなんとかする(自助の原則)するのが筋だ、
だから人権としての生存権なんて「必要」ない。競争して生き残れ、敗れた者は去れ!それが資本主義だ。」とまず「必要性」を否定します。
そして、次に「生存権を人権として認めて保障すると金(予算)がかかるじゃあないか。
景気がよくて税収が豊富なときはいいけど、そうじゃあないときどうするの?
景気が悪いときほど、困窮する人が多くなるわけだから、生存権を人権として保障することは現実的ではなく「許容できない」」と「許容性」も否定するわけですね。
2.法的権利説
このプログラム規定説に反対する「法的権利説」では、上記のような考えに対して、以下のように反論します。
a.プログラム規定説における生存権の必要性の否定に対して(実質的理由)
冒頭に書いたように原始資本主義的夜警国家観を貫くと、餓死するか革命か!というような赤貧層が増えて、
まあ普通、餓死より一か八かの革命を選ぶだろうから、ブルジョアの皆さん、そうなるとギロチンにかけられちゃうよ!
あんまり欲張りすぎて富を独り占めしちゃうと自らの首を絞めることになります。
だから、生存権を人権として保障した方が、ブルジョアの皆さんの身を守ることにもなる。
資本主義体制の下では、ほっておくと極端な格差社会になってしまうのは自明の理であり、だからこそ、「生存権」という人権が「必要」になってくる。
b.プログラム規定説における生存権の許容性の否定に対して(実質的理由)
予算がどうのというけれど、予算よりも憲法の方が上なんだから、金がないからって、憲法がわざわざ「権利」と規定しているものにつき、無視するわけにはいかない。
予算は憲法に拘束されるわけだから、予算を理由に生存権の人権性をないがしろにすることはできない。
収入がないなら、増税する、不景気すぎて増税できないなら、金のある外国やら国際機関から借りればいいじゃあないか、やればできる!
だから、生存権を人権として認めることも「許容」される。
c.ダメ押し打(形式的理由)
憲法25条1項には、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む『権利』を有する。」と書いてあるじゃあないか。
『権利』ってはっきりかいてあるんだよ。
『権利』って・・。
ということで、とてもファンキーなプログラム規定説は、あっさりと法的権利説にしてやられ、後者が通説となっています。
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判例(最大判昭42.5.24:いわゆる朝日訴訟)は生存権の法的性質につき、どういっているのかというと、
「憲法25条1項は、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」と規定している。
この規定は、すべての国民が健康で文化的な最低限度の生活を営み得るように国政を運営すべきことを国の責務として宣言したにとどまり、
直接個々の国民に対して具体的権利を賦与したものではない。」
と述べ、プログラム規定説かのようなことをいっています。
しかし、続いて、
「具体的権利としては、憲法の規定の趣旨を実現するために制定された生活保護法によつて、はじめて与えられているというべきである。」
と書いてあるので、憲法を根拠として救済が認められる具体的権利ではないが、具体的立法を待って与えられる憲法上の抽象的権利ではあると読める余地はありますね。
そう読めるなら生存権は人権であると解釈する余地があります。
次に、
「生活保護法は、「この法律の定める要件」を満たす者は、「この法律による保護」を受けることができると規定し(2条参照)、その保護は、厚生大臣の設定する基準に基づいて行なうものとしているから(八条一項参照)、
右の権利は、厚生大臣が最低限度の生活水準を維持するにたりると認めて設定した保護基準による保護を受け得ることにあると解すべきである。
もとより、厚生大臣の定める保護基準は、法8条2項所定の事項を遵守したものであることを要し、結局には憲法の定める健康で文化的な最低限度の生活を維持するにたりるものでなければならない。」
と述べているのですが、
「厚生大臣の定める保護基準は・・憲法の定める健康で文化的な最低限度の生活を維持するにたりるものでなければならない。」
といっているわけですから、生活保護基準を担当大臣が定めるにあたっては憲法に規定に反してはならないと読めるので、
憲法上の生存権には法的意味があると解することができますね。
しかも、
「何が健康で文化的な最低限度の生活であるかの認定判断は、いちおう、厚生大臣の合目的的な裁量に委されており、
その判断は、当不当の問題として政府の政治責任が問われることはあつても、直ちに違法の問題を生ずることはない。
ただ、現実の生活条件を無視して著しく低い基準を設定する等憲法および生活保護法の趣旨・目的に反し、
法律によつて与えられた裁量権の限界をこえた場合または裁量権を濫用した場合には、違法な行為として司法審査の対象となることをまぬかれない。」
と判例は述べ、「憲法の趣旨・目的に反し、裁量権を逸脱ないし濫用した場合は違法行為として司法審査の対象になる」といっています。
つまり、裁判所が違憲審査もできるといっているわけですから、25条に一定の場合の裁判規範性も認めているということになります。
(ちなみに、この判例では、生活保護を受けていた人が少しだけ兄から仕送りをもらうようになり、
「じゃあ、もう大丈夫だね。生活保護費打ち切るからね。」
とされてしまった件につき、生活扶助を打ち切ったことは行政の裁量権の範囲内であり違法ではないと結論づけています。)
ということで、判例の立場はプログラム規定説的な面もあるが、純粋なプログラム規定説ではなく、法的権利説的な面もあるという理解でよいかと思います。
なお、法的権利説は、さらに
1.抽象的権利説、
2.具体的権利説(立法不作為違憲説)
にわかれるのですが、これについては次回に・・。